鉄原子を集めてナノサイズにした分子の合成に成功 ―クラスター化学の未踏領域探索に向けた第一歩―
京都大学化学研究所 大木靖弘 教授、田中奏多 大学院生、伊豆仁 助教、檜垣達也 助教(研究当時、現:東京大学生産技術研究所)らは、名古屋大学 唯美津木 教授、大石峻也 大学院生、川本晃希 大学院生、ヨーテボリ大学 W. M. C. Sameera 研究員、京都大学 寺西利治 教授、髙畑遼 助教、東京都立大学 山添誠司 教授、吉川聡一 同助教、筑波大学 二瓶雅之 教授、志賀拓也 准教授、京都大学 加藤立久 研究員、ハワイ大学 Roger E. Cramer 教授、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク校 Karsten Meyer 教授、Zihan Zhang 大学院生と共同で、55個の鉄原子をナノメートルサイズ(1.2ナノメートル径)の正二十面体型に配列した分子を、世界で初めて合成しました。
安定で不活性ガスとも呼ばれる窒素や二酸化炭素を他の物質へ変換する反応は、困難ですが生命活動に欠かせません。自然界の窒素固定(N2の還元反応)では、タンパク質に存在し多数の鉄と硫黄原子を含むクラスター錯体が酵素反応を触媒し、また人工的な窒素固定法であるハーバー・ボッシュ法では、金属鉄が触媒として用いられます。2つの窒素固定反応は一見無関係そうですが、複数の鉄原子(元素記号:Fe)を用いることと、複数の水素原子(元素記号:H)が鉄を架橋することが共通しています。これらの共通項を分子として具現化すれば、従来は困難であった物質変換を可能にする、次世代の触媒になる可能性があります。しかし、大きさや構造が一義的に決まる分子として鉄原子を配列することは難しく、従来は最大でも10個程度の鉄原子からなるクラスター錯体に合成例が限られていました。
本研究では、55個の鉄原子を1.2ナノメートル径の正二十面体型に配列し、表面を多数の水素原子(ヒドリド)が架橋したナノサイズの鉄ヒドリドクラスター錯体を、12箇所存在する頂点に適切なホスフィン配位子を配置することで合成しました。ナノサイズの鉄クラスター錯体は、多くの合成化学者が挑戦を続けつつも未達であった”夢の化合物”であり、その詳細な性質は長年謎に包まれてきました。本研究の結果は、ナノメートル領域における鉄の反応性や性質を明らかにし、既存の物質化学・材料化学を凌駕(りょうが)するための第一歩に位置づけられます。
大気中の窒素分子(N2)を還元し、生物が利用できる分子へ変換する触媒反応は、自然界においてはアミノ酸やDNAに含まれる窒素原子を供給するために欠かせない反応です。また、人工的な窒素固定反応であるハーバー・ボッシュ法は、医薬品や肥料を工業的に生産する上で重要な役割を担っています。常温・常圧で行われる自然界の反応と、高温・高圧で行われるハーバー・ボッシュ法では、反応条件や反応機構が異なります。しかし興味深いことに、複数の鉄原子を反応に用いることと、それらの鉄原子を架橋する複数の水素原子が存在することは、両者に共通しています。強いN≡N三重結合を持ち対称構造のN2は、不活性ガスと呼ばれるほど反応性に乏しいため、N2の変換は非常に難しい反応として知られています。その難しい反応を実現する2つの手段に共通する特徴は、従来は困難であった物質変換を可能にする、次世代の触媒を開発するヒントになり得ます。
数個から数十個の鉄原子を多数の水素原子とともに組み上げた分子性化合物である鉄ヒドリドクラスター錯体(1つ1つが溶媒溶液中に溶けている)は、バルク金属(ここでは、塊状の金属のこと)に比べ比表面積が大きく、単位原子当たりの触媒活性が高いと期待されます。この鉄クラスター錯体を、サイズや構造にばらつきがある従来のナノ粒子とは異なり、構造やサイズが一義的に決まる「分子」としての取り扱いを志向したアプローチは、鉄クラスター錯体の性質や機能性について原子レベルの精度で理解する上で重要です。しかし従来の合成研究においては、鉄クラスター錯体の報告例は最大でも10個程度の原子からなる分子までに限られており、数十以上の鉄原子を含みナノメートルサイズのクラスター錯体の合成例は皆無でした。
研究グループは、従来の鉄クラスター錯体の合成法について精査した上で、ナノサイズの鉄クラスター錯体が未踏化合物である所以について仮説を導きました。その結果、(1)どのように巨大な鉄クラスター錯体を形成するか、(2)生成したクラスター錯体をどのように安定化し、さらなる凝集を防ぐのか、の2つの問いについて、有機金属化学の視点から条件を満たすクラスター錯体合成法を設計しようと考えました。以下に詳細を説明します。
既存の鉄クラスター錯体として代表的なものは、鉄原子と一酸化炭素(CO)から構成される鉄カルボニル錯体です。鉄カルボニル錯体の歴史は比較的長く、1970年代から研究例が報告されています。多数の鉄を集めたクラスター錯体を合成する場合は、金属数が少ないカルボニル錯体を前駆体として用い、加熱処理してカルボニル配位子を一酸化炭素として離脱させつつ鉄を集積させる方法が採用されてきました。しかし、加熱条件下では鉄を集積させる成長過程を制御することが難しく、生成したクラスター錯体がさらに大きなクラスター錯体やナノ粒子へと成長しやすいため、選択的にクラスター錯体を合成することが困難でした。鉄カルボニル錯体に限らず、特に鉄原子を有するクラスター錯体の合成反応では、クラスター成長過程を温和な条件で制御できる手法が限られており、本研究で標的とするナノサイズの鉄クラスター錯体を合成するためには、従来とは異なるアプローチで合成に取り組む必要がありました。
以上の背景から当研究グループでは、金属に結合している配位子が少ない低配位数の錯体を前駆体として用い、温和な条件で配位子を水素原子に置換できる新しい金属クラスター錯体合成法の開発に取り組んできました。本研究のクラスター錯体合成法のポイントは、金属に結合したかさ高いビス(トリメチルシリル)アミド配位子がホウ素試薬(ピナコールボラン)と温和な条件で反応し、アミド配位子とホウ素上の水素原子が交換することです。実際に当研究グループは、アミド配位子を有する鉄またはコバルト錯体とピナコールボランおよびリン配位子(ホスフィン)の反応から、鉄やコバルト原子を4〜6個含むヒドリドクラスター錯体を合成できることと、それらが窒素分子の還元反応などに高い触媒活性を示すことを見出しています。これらの成果は、「分子」としてのクラスター錯体を合成し利用することが、従来の機能性物質を凌駕する上で有用なアプローチであることを示唆しています。ただし、鉄原子間の結合は比較的弱く、また鉄原子は空気により酸化されやすいため、クラスター錯体の成長過程を制御するだけでなく、生成したクラスター錯体を嫌気下(酸素のない環境)で取り扱う必要もあります。
以上の知見を踏まえて、本研究では未踏領域にあたるナノサイズの鉄クラスター錯体の合成に成功しました(図1)。このとき、多数の金属原子を集積して得られるクラスター錯体は低原子価状態になりやすく金属原子部分が近接すると凝集しやすくなってしまうので、生成するクラスター錯体同士が凝集しないよう外周を保護する目的で、還元状態の金属を電子的に安定化しやすく十分にかさ高いホスフィン配位子(トリ-tert-ブチルホスフィン)を併用しました。55個の鉄原子を含む[Fe55]クラスター錯体の構造は、単結晶X線構造解析により確認しました。その結果、[Fe55]クラスター錯体の12箇所の頂点にホスフィンが配位していることがわかりました。結晶構造から明らかになった[Fe55]クラスター錯体の金属コアは直径1.2ナノメートルであり、本クラスターは世界で初となるナノメートルサイズの鉄クラスター錯体であることが確認できました。さらに研究グループは、[Fe55]クラスター錯体の表面が46個の水素原子(ヒドリド)で覆われていることを、主に質量分析法により確認しました。また、この化合物からは特異な磁気的性質も観測されたことから、磁石を構成する材料のドメインが一定サイズ以下になると発現する超常磁性現象の起源を探る契機にもなる可能性があります。
55個もの鉄原子が金属間結合を形成した巨大なコアを有する化合物は、前例がありません。長年の未踏領域であったナノサイズの鉄クラスター錯体を対象とした実験的・理論的な研究が加速的に進み、その性質や機能性が明らかになると期待されます。一般に高校化学の講義では、分子や錯体においてはイオン結合・共有結合が生成し、より多くの原子が会合したバルク金属においては金属結合が生じると説明します。本研究で実現したクラスター錯体は、式量ではなく分子量で定義される「金属的な結合」を有する「分子性」の化合物であり、教科書的な定義に挑戦する研究成果であるとも言えます。
(A)[Fe55]クラスター錯体の合成反応。アミド配位子を有する鉄錯体と市販のピナコールボラン(HBpin)およびホスフィン(PtBu3)をトルエン中で混合する単工程の反応から合成できる。(B)[Fe55]クラスター錯体の結晶構造(右)。濃い青色の球が鉄原子、オレンジ色の球がリン原子、薄い灰色の球が炭素原子を表す。12個の頂点(鉄原子)にホスフィン(リン原子1個、炭素原子12個から成る)が配位しており、表面は46個の水素原子でおおわれている(水素原子は省略している)。6つの鉄原子を八面体型に配列した[Fe6]クラスター錯体(左)が対イオンとして共存している。
以上の通り本研究グループは、単工程で直裁的な独自のクラスター合成法を利用して、ナノメートルサイズの巨大鉄クラスター錯体の合成に世界で初めて成功しました。しかし、今回の成果は第一歩に過ぎません。今後、同様の反応を応用して、多様なサイズや構造のクラスター錯体を網羅的に合成します。未踏領域とされてきたナノサイズの鉄クラスター錯体の性質や反応性を明らかにすることで、持続可能社会に寄与する新しい材料化学、例えば既存の磁性材料を超越するナノマテリアルの創製や次世代の触媒開発が現実味を帯びると期待しています。
本研究は、以下の研究プロジェクトの助成を受けて推進しました:JST戦略的創造研究推進事業CREST(JPMJCR21B1, JPMJCR21B4)、JSPS科学研究費補助金(23H01974, 22K20558, 23K13707, 23K13763, 24H00053, 24H02217)、矢崎科学技術振興記念財団、徳山科学技術振興財団、京都大学化学研究所 国際共同利用・共同研究拠点補助金、京都大学化学研究所らしい融合的・開拓的研究、フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク校
●用語解説●
錯体:遷移金属(周期表の下部中央に見られる重金属元素)を含む分子性化合物の総称。
クラスター錯体:複数の遷移金属(例えばMとする)を有する分子性化合物をまとめて呼ぶ総称。金属塊として安定に取り扱える貨幣金属(金、銀、銅)から構成されるものが比較的よく知られている。
配位子:金属と結合し、分子性化合物(錯体)を生じる物質の総称。例えば、水分子も配位子として金属に結合できる。本研究では、かさ高い炭化水素基を有するホスフィン配位子を用いた。この配位子は、Feと強く結合し外れにくいため、金属クラスター錯体を立体的に保護する目的で導入している。
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