SciPROP-R配位子:塩化アルキルを基質とする官能基選択的な鉄触媒鈴木-宮浦カップリングの実現
京都大学化学研究所 中村正治 教授らは、反応性が乏しくこれまで用いることが困難であった塩化アルキルを基質とする官能基選択的な鉄触媒鈴木-宮浦カップリング反応を新規なホスフィン配位子SciPROPを創出することで実現しました。
鈴木-宮浦クロスカップリング反応は二つの有機基を連結する様々なクロスカップリング反応の中でも、温和な条件で進行し、かつ官能基許容性が高いことから、医農薬品や有機電子材料合成に不可欠な反応として広く利用されています。従来の鈴木-宮浦クロスカップリング反応はパラジウムなどのレアメタルを用いて行われますが、地殻埋蔵量が低く、地域偏在性も高いことから、持続可能社会に向けた普遍金属を触媒として用いる合成手法が強く望まれていました。中村教授らは地球上に普遍的に存在する遷移金属である鉄を触媒として用いた様々なクロスカップリング反応をこれまでに開発しており、鈴木-宮浦カップリング反応の開発にも世界に先駆けて成功していましたが、反応性の乏しい塩化アルキルを適用することは困難でした。本研究では、2位に置換基を有するプロピレン架橋ビスホスフィン配位子SciPROP-R配位子を開発し、電子的効果と立体的効果の協働効果により鉄触媒の反応性を制御することで、塩化アルキルを用いる鈴木-宮浦カップリング反応の開発に成功しました。
なお、SciPROP配位子は、富士フイルム和光純薬から“SciPROP-TB”として販売されています。
本研究の概要図 : SciPROP-R配位子を用いる鉄触媒鈴木-宮浦クロスカップリング反応
クロスカップリング反応は任意の2種類の有機基を連結する反応であり、医農薬品や有機電子材料を合成するために広く利用される有機合成反応です。クロスカップリング反応の中でも有機ホウ素試薬と有機ハロゲン化物を連結する鈴木-宮浦クロスカップリング反応は温和な条件で反応が進行するとともに、様々な官能基を持つ化合物でも使用可能であることから、幅広く利用されています。これらのクロスカップリング反応は主にレアメタルであるパラジウムを触媒として用いるため、資源性・地域偏在性の観点から普遍的な金属での代替が強く望まれていました。このような背景の下、中村教授らのグループをはじめ、様々な研究グループにより、地球上に普遍的に存在する鉄を触媒として用いるクロスカップリング反応が開発されてきました。中村教授らはかさ高い置換基を有するフェニレン架橋ビスホスフィン配位子SciOPPを開発することで、鉄を触媒として用いる鈴木-宮浦クロスカップリング反応の実現に世界に先駆けて成功しましたが、反応性に乏しい塩化アルキルは基質として適用することが困難でした(図1)。
図1 : 従来のビスホスフィン配位子SciOPPを用いた鉄触媒クロスカップリング反応
本研究グループは、塩化アルキルに対する鉄触媒の反応性を向上させることを目的とし、従来のSciOPP配位子と同様の (1) 周辺のかさ高さによる鉄中心の配位環境の制御、という点に加え、(2) アルキル架橋によるホスフィン上のσ供与性の向上、(3) アルキル架橋2位の置換基による配位構造の安定化、という点を考慮し、新たなビスホスフィン配位子を設計・合成しました(図2)。
図2 : SciPROP-R配位子の分子設計
合成したプロピレン架橋ビスホスフィン配位子SciPROP-Rを用いて鉄錯体を合成し、触媒反応の検討を行った結果、従来の配位子では適用が困難だった単純な塩化アルキルを基質とした鈴木-宮浦カップリング反応が効率よく進行することを見出しました(図3)。触媒活性はプレピレン架橋2位にかさ高いtert-ブチル基を有するSciPROP-TBが最も高く、立体的に小さなメチル基、無置換の配位子の順に触媒活性の低下が確認されました。最も触媒活性の高いSciPROP-TB配位子を用いて基質の適用範囲を調べた結果、鈴木-宮浦カップリング反応の特徴である高い官能基許容性を示し、エステルやニトリルなどの官能基を持つ基質においても効率良く生成物を与えることを見出しました。さらに、反応中間体に関する知見を得るための検討を行った結果、ラジカル種の生成を示す環化型や開環型の生成物が得られたことから、従来の鉄触媒反応と同様に、塩化アルキルから対応するアルキルラジカルが生成し、クロスカップリング反応が進行していることが確認されました。
図3 : SciPROP-TB配位子を用いた鉄触媒鈴木-宮浦クロスカップリング反応の基質適用例
SciPROP-R配位子のプロピレン架橋2位の置換基によって大きく触媒活性が異なる理由について明らかにするために、種々の構造解析を行いました。単結晶構造解析の結果、2位が無置換のものや、置換基としてメチル基を有するものでは、ビスホスフィン配位子と鉄により形成される六員環が椅子型配座を取るのに対し、かさ高いtert-ブチル基を有するものでは、舟型配座を取ることが明らかになりました(図4)。また、放射光を用いるX線吸収分光法により、溶液中における鉄錯体の配位構造を調べた結果、溶液中においてもこれらの配座は保持されていることが確認されました。密度半関数計算を行った結果、メチル基などの立体的に小さな置換基では舟型配座に対して椅子型配座が熱力学的に安定化されるのに対し、tert-ブチル基のように立体的に嵩高い置換基では舟型配座の方が安定化されることが示されました。
図4 : プロピレン2位置換基として(a) tert-ブチル基、(b)メチル基を有するFeCl2(SciPROP-R))錯体の単結晶構造
これらの結果から、SciPROP-R配位子は研究グループが設計したように、アルキル架橋によるホスフィン上のσ供与性の向上、および置換基の嵩高さによる鉄中心の特異な配位環境が構築されていることが高い触媒活性の起源であることが明らかになりました。
本研究成果は、地球上における普遍遷移金属である鉄を触媒とする鈴木-宮浦クロスカップリング反応の実用性を拡大するものであり、レアメタルに依存しない持続可能社会における基礎化学品合成に不可欠な有機合成手法となると期待されます。
本研究は、科学研究補助金(20675003、 15K13694、 20H02740、 23H01959、 26105003)、次世代研究開発支援プログラム、JST戦略的創造研究推進事業CREST(11103784、 1102545)、JST先端的低炭素化技術開発、東ソーファインケム、日産化学株式会社、住友化学奨学金、および京都大学化学研究所の国際共同利用・共同研究拠点の補助を受けて行われました。
●用語解説●
官能基選択的:分子内に反応性官能基を有していても、特定の官能基のみが選択的に反応することを化学(官能基)選択的と呼ぶ。
鉄触媒:地殻中に普遍的に存在する鉄を触媒反応の活性中心として持つ鉄錯体分子。
クロスカップリング反応:Pd等の適当な触媒の存在下に、炭素アニオン性の反応剤R-M(Rは適当な有機分子)とハロゲン化芳香族分子Ar-Xを反応させ、R-Arを得る炭素-炭素結合形成反応。有機分子の炭素骨格を拡張・展伸したり、芳香族分子に様々な官能基を導入することによって機能付与を行う事ができるため、医薬品、電子材料(液晶、有機ELなど)の分野で最も重要な有機合成反応の一つである。
鈴木-宮浦カップリング:Pdを触媒として用い、有機ホウ素試薬R1-BR’2と有機ハロゲン化物R2-Xの間で進行し、生成物R1-R2を与えるクロスカップリング反応。鈴木章先生の2010年ノーベル化学賞受賞成果。
ビスホスフィン配位子:金属原子の凝集を抑制し、均一系触媒として作用するために安定化するための配位子としてホスフィン配位子が広く用いられる。その中でも、配位子分子内に2つのリン原子を有し、キレート配位によって金属錯体を高度に安定化する二座配位子をビスホスフィン配位子と呼ぶ。
X線吸収分光法(XAFS法):内核分光法の一種で、対象分子に強力なX線を照射することによって内核電子を励起させ、光電子として分子の外に弾き出した際に吸収されるエネルギーをX線波長に対してプロットした吸収スペクトル。XAFS法は強力な放射線を利用するため、実際の触媒反応と同等の低濃度条件での測定が可能となる。また、UV-visスペクトルの様に最外殻電子ではなく、内核に強く束縛された電子を対象としているため、元素種に固有の内核エネルギーに依存したスペクトルを与える元素選択的な分光法であることが大きな特徴と言える。例えば、本触媒の関与する分子種では,Feのみ,Clのみといった元素別のスペクトル測定が可能であり、対象分子内の各元素について、存在の有無や、電子状態、価数、結合情報を個別に知ることができる。XAFSスペクトルは2領域に分けて分析されることが一般的であり、吸収スペクトルの開始端附近であるXANES(X-ray Absorption Near Edge Structure)と呼ばれるスペクトルでは、開始端のエネルギー値や形状によって対象元素の価数や配位構造(軌道対称性)の情報が得られる。また、XANES吸収端のさらに高エネルギー側に見られる振動構造EXAFS(Extended X-ray Absorption Fine Structure)と呼ばれる領域では、振動構造を解析する事で、対象元素に結合した各原子との距離情報を知ることが可能であり、観測対象元素を中心とした局所構造の精密決定が行える。