低周波信号の新規高感度量子センシング手法を開発 ―NV量子センサを用いた核磁気共鳴(NMR)世界最小線幅を実証―
京都大学化学研究所 水落憲和 教授、E. D. Herbschleb 同特定助教、大木出 同研究員、スミダ電機株式会社 芳井義治 Vice President、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 加藤宙光 上級主任研究員、牧野俊晴 研究チーム長らの研究グループは、低周波数の交流磁場を高感度に、且つ高周波数分解で計測できる新たな量子センシング手法を考案しました。
ダイヤモンド中のNV中心を用いた量子センサ(NV量子センサ)は、室温で動作し、高感度、高空間分解能を有することから注目されています。幅広い分野での応用が期待されていますが、核磁気共鳴(NMR)計測への応用の期待から、これまでNMR線幅の先鋭化を実現する量子ヘテロダイン(Qdyne)法などが開発され[1]、その実証研究が注目されていました。しかし、Qdyne法での交流磁場計測では、数十kHz程度の周波数で最大感度を有し、周波数が変わると著しく感度が落ちるという性質がありました。今回、新たな量子センシング手法を開発し、周波数にほぼ依存せず、高感度を維持することを実証しました。また、この手法をNV量子センサに適用して、水分子の水素を低周波数(数Hz)で計測し、これまでNV量子センサを用いて計測したNMR信号の線幅としては世界最小線幅(1.6 Hz)を実証しました。今回開発した手法はNMR以外にも、低周波領域など幅広い周波数領域での応用研究で用いられることが期待されます。
近年、超高感度センサや量子情報素子応用の観点からダイヤモンド中のNV中心が注目されています。NV中心について特筆すべき点としては、室温で1個(単一)のNV中心が有するスピンを観測でき、さらに他材料に比べ、室温でも際立って長いスピンコヒーレンス時間(T2)を有する点があげられます。量子センサの観点ではT2が長いほど感度が良くなります。NV中心では磁場、電場、温度、圧力などの高感度センサとしての応用が期待され、また1個1個を観測できる点から、ナノメートルレベルでの高空間分解能も実現できます。そのため、NV中心による量子センサは高空間分解能、且つ高感度を要求される細胞内計測、タンパク質物質の構造解析などの生命科学分野や、微細なデバイス評価装置用センサなどへの応用も期待されています。また、センサ感度は一度に計測するNV中心の数を増やすことにより、空間分解能が悪くはなりますが、さらに感度を飛躍的に高めることができます。原理的には、液体ヘリウムを用いないと動作できない超伝導量子干渉計の感度(フェムトテスラ)レベルや、気相中のガスを用いた光ポンピング磁力計の感度(フェムトテスラ)レベルに、固体でありながら室温でも到達することが期待できます。このため、心磁計、脳磁計などの医療機器を含め、極めて高い感度が要求される分野においても、幅広い応用が期待されます。
近年、量子ヘテロダイン(Qdyne)法[1]とよばれる、原理的にはスペクトル線幅を任意に先鋭化可能な手法が提案されました[1]。この手法により、NV中心による核磁気共鳴(NMR)計測において、構造解析を行えるようなスピン間結合が観測できるほどのレベルのスペクトル線幅が得られることが実証されました[2]。しかし、Qdyne法では、感度が数十kHz程度で最も良くなりますが、それ以外の周波数では著しく感度が落ちるという課題がありました。我々はこの課題を解決すべく、検出信号の特に更なる低周波領域でも高感度を維持しつつ、スペクトル線幅を任意に先鋭化可能な計測を可能とする手法を考案しました。その新規手法による計測アルゴリズムの概略を図1に示しました。
本手法では、まず図1(a)に示す自由誘導減衰信号計測を行います。光励起(532 nm)照射によりスピンを初期化し、次に90度マイクロ波パルスによりスピンコヒーレンスを生成し、τ秒後の90度マイクロ波パルスによりコヒーレンスを分極に移し、その後、光読み出しを行います。次に図1(b)に示しますように、図1(a)の自由誘導減衰信号計測を繰り返し、黄色部での信号を計測します。次に図1(c)に示しますように図1(b)の各黄色領域での信号(磁場)強度に応じてスピンコヒーレンスの位相の変化が計測され、信号(磁場)強度を計測します。このように信号(磁場)をオシロスコープで観測するように計測できます。 我々は、考案した手法の感度の周波数依存性を実験、及び理論的に見積もりました。その結果を図2に示します。図2には単一NV中心を用いた場合の実証実験結果を、従来技術であるハーンエコー法による感度の周波数依存性(ピンク色点線)とパルス光検出磁気共鳴法(オレンジ色点線)との比較も含めて示しました。新規手法の実証実験結果を青色の点で示しています。ピンク色の点で示した従来技術での結果(シミューレション結果)は、低周波数側では数百Hzの領域において感度が著しく悪くなります。一方で、青色で示した本手法の実証実験結果では、1 Hzレベルの低周波数から実証実験を行い、低周波領域でも感度を維持できていることが示されています。図2に示した実証では1個のNV中心を用いた際の結果で、感度としては約10 nT/(Hz)1/2が実現することを示しています。多数のNV中心を含むアンサンブル系での測定により、更なる桁違いの高感度化が期待できます。
我々は更に、この手法により、水分子のNMRをNV中心により計測しました。その結果を図3に示します。この測定における試料は既存のNMR装置の磁場中におかれ、ダイヤモンド試料に誘導されたNMR信号をNV中心により計測しています。図3(b)に示しますように、最小で1.6 Hzの線幅が計測され、これはこれまでの最小値(>10 Hz)に比べ細く、NV中心を用いて計測したNMR信号の線幅としては、世界最小線幅を実証しました。
今回の実証実験では核スピンから生じる磁場を計測しましたが、今回考案した手法は、磁場以外にも電場、温度、圧力などの物理量を計測することも可能です。また、NV中心以外の他の量子センサでも適用できます。今回開発した手法は、低磁場NMRで得られる低周波数のNMR信号の計測にも用いることも期待されます。低磁場NMRでは、一般的な高磁場NMRとは異なった情報を与えてくれることから応用が期待され、化学分析[3]や、素粒子研究への応用[4]など、幅広い分野での適用が期待されます。今後は、これらの実証実験への展開も行っていきたいと考えています。
本研究は、科学研究費・基盤A「ダイヤモンドNV中心の量子状態高度制御による量子センシング顕微鏡計測研究」(代表者:水落憲和、21H04653)、科学技術振興機構 産学共創プラットフォーム共同研究推進プログラム(OPERA )(代表者:木本恒暢、No. JPMJOP1841)の支援を受けて行われました。
●用語解説●
量子ヘテロダイン(Quantum heterodyne : Qdyne)法:パルス列で得られる信号の時間系列データをフーリエ変換してスペクトルを取得する手法[1].原理的には周波数分解能がクロックの安定性にのみ制限されるため、周波数の高分解能化が期待できる.核磁気共鳴(NMR)線幅の先鋭化を実証し、注目されている[2].各パルス列ではデカップリング法により信号を計測するため、特定の周波数で高感度を実現できるが、それ以外の周波数では感度が落ちてしまうという性質を有する.
スピンコヒーレンス時間(T2):スピンを用いて0と1の量子的な重ね合わせ状態を実現できるが、その重ね合わせ状態が1/eの大きさ(およそ0.37.eは自然対数の底)に小さくなるまでの時間をスピンコヒーレンス時間T2と呼ぶ.磁気共鳴スペクトルにおける均一線幅はT2の逆数に依存し、T2が長ければ均一線幅も狭くなる.これはセンサ感度が良くなることに対応.