超高真空・極低温のアモルファス亜酸化窒素(N2O)の構造を解明: 機能性有機薄膜や氷星間塵の研究への応用も

本研究成果は、2020年9月8日に国際学術誌「The Journal of Physical Chemistry Letters」にオンライン公開されました。 

 東京大学大学院総合文化研究科附属先進科学研究機構の羽馬哲也 准教授、京都大学化学研究所の長谷川健 教授、北海道大学低温科学研究所の渡部直樹 教授、香内晃 教授らは、「赤外多角入射分解分光法(Infrared Multiple-Angle Incidence Resolution Spectrometry、以降は赤外MAIRS法とする)」という新規赤外分光法を用いて、これまで研究が困難であった「超高真空・極低温で作製したアモルファス薄膜」の分子構造を調べる方法を開発しました。
 開発した装置を用いて6 K-267 ℃)のアモルファス亜酸化窒素(N2O)薄膜について分析を行ったところ、薄膜内でN2O分子は基板法線から平均して65°傾いて配向していることがわかりました。N2O薄膜は、真空蒸着法で作製すると107−108 V m-1(N2O一分子層あたり+3 mVから+32 mV)という巨大な電場が形成されることが知られており、本研究によってN2O薄膜の電気的性質と分子構造とを結び付けて理解できるようになりました。
 真空蒸着法は有機半導体などの機能性有機薄膜の作製にも用いられています。また極低温基板に真空蒸着法で作製したアモルファスな分子性固体(H2O、 CO、 CO2、 NH3など)の薄膜は、宇宙を漂う氷星間塵の模擬物質としてよく研究されています。今後、これらの物質について赤外MAIRS法を用いた分析を行うことで研究が大きく発展することが期待できます。

 
1. 背景
 真空中に設置した基板にガスを蒸着することで薄膜を形成する「真空蒸着法」は、有機半導体などの機能性有機薄膜の作製によく用いられる手法です。また真空中の基板が10 K-263 ℃)ほどの極低温の場合、水(H2O)や窒素(N2)、酸素(O2)なども分子間力によって吸着し、分子性固体の薄膜を形成します。この「分子性固体の薄膜」については興味深い電気的性質が知られており、極性分子(H2OCO N2O NH3など)のガスを蒸着して薄膜を作製した場合、表面の電位が上昇することが知られています。とくにN2Oの場合、107108 V m-1 N2O一分子層あたり+3 mVから+32 mV)という巨大な電場が形成されることが知られており、盛んに研究が行われています。
 薄膜が形成することによって電場が形成されるということは、N2O薄膜内でN2O分子の向き(分子配向)が揃っていることを示唆しています。さらに興味深いことに、薄膜が結晶のときだけでなくアモルファスの場合にも同様の現象が確認されており、長距離秩序(結晶のような周期的な構造)を持たないアモルファスの状態で、なぜ表面電位が上昇するのか、つまりどの程度分子の向きが揃っているのかについては、今に至るまでよくわかっていませんでした。
 
2. 研究内容
 東京大学大学院総合文化研究科附属先進科学研究機構の羽馬哲也准教授、京都大学化学研究所の長谷川健教授、北海道大学低温科学研究所の渡部直樹教授、香内晃教授らは、「赤外MAIRS法」という、近年開発された赤外分光法を超高真空・極低温環境でも行える、実験装置を開発し、アモルファスN2O薄膜の分子配向を定量することに成功しました(図1)。赤外MAIRS法は、多変量解析と赤外分光法を組み合わせた分析法で、数ナノから数百ナノメートルほどの厚さしかない薄膜内の分子の面内振動(基板に平行な振動)と面外振動(基板に垂直な振動)の赤外吸収スペクトルを、同一の試料から定量的に得ることができます。そのため、得られた面内振動・面外振動の赤外吸収スペクトルの強度比から、薄膜中での平均的な分子配向を定量的に解析することが可能になります。
 開発した装置を用いて6 KのアモルファスN2O薄膜について赤外MAIRS法による分析を行い、面内振動スペクトルと面外振動スペクトルの強度比から、薄膜内のN2O分子の配向を解析したところ、N2O分子は基板法線から65°という平均配向角を持っていることがわかりました(図2)。一般的に、長距離秩序構造を持たないアモルファスな物質では、分子はランダムな方向を向いていると仮定されることが多いのですが、本研究結果からアモルファスN2O薄膜内ではN2O分子の向きに指向性があることがわかりました。
 
図1 本研究で開発した「超高真空・極低温赤外MAIRS法」のための実験装置。
 
図2 (左図)面内振動と面外振動のイメージ図。(中図)赤外MAIRS法で得られた6 KのアモルファスN2O薄膜の面内振動スペクトルと面外振動スペクトル。(右図)面内振動スペクトルと面外振動スペクトルの強度比から明らかになったアモルファスN2O薄膜内のN2O分子の平均配向角(基板法線から65°)。
 
3. 社会的意義
 本研究によって、超高真空かつ極低温というこれまで研究が難しかった薄膜についても分子配向が定量的に調べられるようになりました。本研究の応用の方向性については二つあります。ひとつは真空蒸着によって作られる機能性有機薄膜の解析です。有機エレクトロニクスの分野で重要な有機半導体などの薄膜は真空蒸着法で作られるものも多いのですが、その生成過程において分子の向きがどうなっているのかについて、これまで定量的に調べることは困難でした。今後、本研究手法を機能性有機薄膜に応用することにより、薄膜の形成過程を分子レベルで明らかにすることができるようになり、薄膜の設計指針を立てるために役立つことが期待されます。
 もう一つの方向性は宇宙化学です。宇宙にはアモルファス鉱物でできた塵が漂っており、その表面はアモルファス氷(H2OだけでなくCO、 CO2、 NH3なども含まれる)で覆われていることが知られており「氷星間塵」と呼ばれています。太陽系を含む惑星系はこの氷星間塵を材料物質として形成されますが、氷星間塵面の表面を覆うアモルファス氷や塵の核となるアモルファス鉱物が分子レベルでどのような構造をしているのかは今でもよくわかっていません。本研究はN2Oについて行いましたが、今後H2OやCO、 CO2、 NH3などについても研究を進めることで、氷星間塵の構造をより詳細に理解できるようになり、赤外天文観測の結果の解釈、ならびに惑星系の形成についての理解がより進むことが期待されます。
 

●用語解説●

赤外分光法:物質に赤外光を照射し、透過または反射した光を測定することで、試料の構造解析や定量を行う分析手法。波長が2.5~20μm(波数にして4000~500 cm-1)ほどの赤外光を物質に照射すると、分子の振動による物質固有の吸収パターン(スペクトル)が現れ、分子の構造に関する情報が得られる。

 

基板法線:基板に対して垂直に伸びた線。

 

真空蒸着法:真空中の基板に、蒸着材料のガスを付着させ薄膜を形成する方法。

 

多変量解析:多くの変数を持つ複雑なデータから、知りたい情報を引き出すための統計的方法。