松林准教授、中原教授ら「脂質二重膜への物質分配の自由エネルギー計算法を確立」(08/5/21発表)

平成20年6月 トピックス

松林伸幸准教授、中原勝教授ら
(環境物質化学研究系 分子環境解析化学)


左より松林伸幸 准教授、中原 勝教授

 分子環境解析化学研究領域の松林伸幸准教授、中原勝教授、ならびに産業技術総合研究所計算科学研究部門篠田渉博士らの研究グループは、これまでに定式化した新タイプの溶液理論であるエネルギー表示法を拡張し、脂質二重膜への物質分配・輸送を支配する自由エネルギーを全原子型の分子動力学シミュレーション(MD)で計算する事を可能にしました。

 リン脂質分子は生体膜の主成分であり(図1)、水溶液中で自発的に二重膜構造を形成することが古くから知られています。脂質膜は、溶液内の「仕切り」として働き、物質分配・輸送に重要な役割を果たします。近年、脂質膜の分子論的研究が進展し、構造やダイナミクスについての原子レベルでの知見が明らかになってきました。この進展には、計算機シミュレーション(主に、分子動力学法、MDと略称、図2に例を示す)が大きな役割を果たしています。しかしながら、物質分配・輸送の鍵を握る量である自由エネルギーの算出には、膨大な時間がかかります。標準的な自由エネルギー計算法では、「中間状態」と呼ばれる、多くの場合に非物理的な状態の計算が不可避であり、通常のMDの数十倍の計算が必要であるからです。自由エネルギー計算の困難が、分子間相互作用から物質分配・輸送現象を理解するうえでの大きなネックとなっていました。

 松林准教授らは、この困難を乗り越えるために、新しい溶液理論を開発し、MDと組み合わせることで、標準的手法と比較して、数十倍高速な自由エネルギー計算法を確立しました。溶液理論との結合によって、上記の「中間状態」の計算を回避するというアイデアです。ポイントは、自由エネルギー計算のための良い溶液理論を構築する点にあります。松林准教授らによって開発された溶液理論はエネルギー表示理論と呼ばれます。溶液理論は1930年代から70年以上の長い歴史を持つ分野ですが、ずっと、動径分布関数と呼ばれる、原子間距離情報に基づいた定式化が行われてきました。しかし、原子間距離情報に基づく定式化では、超臨界流体・ナノ不均一系のような現代の物理化学の対象に適用が難しいことも、古くから知られていました。松林准教授らのエネルギー表示溶液理論は、伝統的理論とは対照的に、分子間相互作用エネルギーの情報によって、定式化を図ったものです。全く新しい視点からの定式化によって、超臨界流体・ナノ不均一系の精度良い記述が可能になりました。さらに、脂質膜やミセルを、ナノレベルで不均一な混合溶媒とみなすことで、界面化学の対象を溶液化学の手法によって統一的に取り扱うことができるようになりました。


図3 DMPC膜に疎水性溶質を挿入したときの自由エネルギー変化。膜の領域を内側から5Å毎に分割して、領域I….VIと呼んでいる。

 図3にDMPC膜への疎水性分子の結合の自由エネルギー変化Δμを示します。全原子型のポテンシャル関数から、Δμが短時間で計算できるようになった点が重要です。バルク水内と比べると、膜内部での顕著な自由エネルギー安定化が見出されています。極性・親水性の頭部での安定性は、意外と高いことが分りました。これは、膜外の水の影響です。疎水性の源となる排除体積効果が減退する一方、中距離で作用する分散引力が比較的残存するためです。原子レベルの自由エネルギー解析の理論・計算結果、特に、頭部での分子分布については、最近、対応する実験結果が得られつつあります。図3の自由エネルギー曲線から、膜-水間の分配係数の計算が可能であることも示されました。脂質膜の介在する物質設計への大きな一歩です。

●用語解説●

分子動力学シミュレーション:
分子内および分子間相互作用を定めて、ニュートンの運動方程式を解き、統計集団を生成する方法。与えられた相互作用ポテンシャルの範囲内では、どのような情報を得ることも原理的に可能。 (本文に戻る)

分布関数:
溶液のような不規則系の記述法。1つ、2つ・・・の分子の(相対)配置、または、その縮約変数の確率分布を表す。分子集団が決まった配置をもたず、大きく揺らいでいるときに必要な記述法。 (本文に戻る)